奇特な世界へようこそ~僕の思考回路~

僕ことURAKIが綴る目眩く思考・嗜好・そして志向の世界へようこそ。貴方にニッチな体験と出会いをお届けする そんな雑記をご賞味下さいm(_ _)m

無理難題の哲学 果たして人は相手の気持ちになれるのか 


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 人は感情の生き物です。時に「相手」を傷つけてしまったり、不快な思いをさせてしまうことはあるでしょう。

 そんな時、見兼ねた第三者が、加害者を窘める場合に掛ける言葉として

「もし自分がそんなことを言われたら(されたら)どう思うか考えてみなさい。」

それから

どれだけ傷ついたのか、相手の気持ちになって考えてみなさい。」

 

 どちらもよく聞くセリフではないでしょうか?

 そして、恐らくどちらも凡そ同義として口にしている方も多いのではないでしょうか?

 しかし、それこそよく考えてみて下さい。しっかりと文脈を追ってみれば、この二つの言葉は全く別次元を謳っているということが分かるはずです。

 前者の場合、文字通り「自分自身」を「相手の立場」に置き換えて考えてみろというものです。なるほど、これについては、「その行為自体は」譜面通り実行できるでしょう。

 問題は、後者です。「相手の気持ちになって」等と、まるで淀みを知らず流れ続ける川の水の如く、さらりと述べていますが、冷静に考えれば分かるように、これって物凄く難解なことだと思うのです。

 当たり前のことですが、人は皆それぞれ違います。勿論思考も千差万別なわけで、先天的な性格から、今までの人生で視てきたもの触れてきたもの、出会った人物や本の影響etc 様々な要因が絡まって価値観が形成されているのです。

 そんな異なる価値観、感覚で生きる個々人が、違う誰かの気持ちに為ることなど果たしてできるのだろうか?ということです。

 自分自身をその立場に置くのと、その立場の人間にシンクロするのは全く違うことだというのがお分かり頂けたでしょうか

  で、あれば前者(立場置き換え)ならば、正解なのか?という話ですが、僕はこれも結局問題の解決には至らないと思っています。まぁ、そもそも「正解」などというものは存在しないのですが・・・ 

 

 初期の記事で僕の思う恐怖*1を綴りましたが、恐らく、あのような一般的には理解できない感情というものを、皆さんも一つや二つは持ち合わせているんじゃないかなと思っています。

 例えば、相手の立場に自らを置き据えた際に、もしその人(被害者)が、仮に自分の理解できない感情を抱き、それが因で傷ついていたのだとしたら、その場に立って考えても全く意味はないでしょう。「自分だったらこう感じる。だから相手もこんな気持ちになったのだろう。」は、無意味な推測でしかないのです。

 

 今ではLINEやカカオトークなどのSNSを使用するようになった為、プライベートなやりとりでは使用頻度こそ減りましたが、Eメールの送受信について、僕が昔から感じていることがあります。それはResponseについてです。

 ご存じ、Eメールでは、返信をする際に、新規作成して送らない限り、表題欄にRe:が付きますよね。いちいち新規作成などせず、この返信機能に頼るのはごく当たり前のことなのですが、僕がちょっと気になってしまうのは、自分の送付したタイトルまで返信されてくることなんですよね。そもそもタイトル自体入れないっていう人にはピンのこない話なのかもしれませんが・・・(延々とRe:Re:Re:なわけですからねたぶんそういう人はタイトル欄なんてものを意識すらしてないでしょうしね。

 しかし、僕などは性格的なものもあり、律儀にできる限り毎回メールにはタイトルを付けて送ってしまうんですよね。そんなときに起こる相手との、このタイトルに対する感覚の違い(温度差)にストレスを感じるのです。

例えば・・・

Re:本日の予定について    まあこれくらいなら許容範囲なんですが、とりあえず律儀な僕は、こう返ってきたタイトルを一度Re:も含め全文消去して新たに「時間の件了解!」なんてタイトルを付け直して送ったりします。するとまた相手からは

Re:時間の件了解!  などと、先ほど僕が付けたタイトルを再度送り返してくるわけですよ 

 もうこの時点で、何を不快に思うところがあるんだ?至って普通の光景じゃないかと思われた方には、この先も理解いただけないかもしれませんが、、

さらに僕の感情の琴線をかき乱す追い打ち行為、それは、上記のようなやりとりを忘れたくらい後になって、同じ人物から別件でメールが届いた際、Re:Re:時間の件了解! 

というタイトルで送られてくることです。

これは、一瞬???ってなりますよ。「あれ?なんか約束してたっけ・・・」って

で、よくよく考えたら、以前にやりとりした時のメール受信履歴を用いてそこから返信しているんだって気づくわけです。 

 そこで思うわけです。そんなに新規作成が面倒なのかと そもそもタイトルもきっちりいれて毎回きちんと?メールを作成したい僕のような人間からすれば、もうその「過去の使い回しで新規やりとりを始めよう」という意思が理解できないわけで・・・

 まあ100歩譲って、もし過去履歴から返信したたいなら、せめてRe:と過去タイトルは消してからにしろといいたいところ。ま、そんな手間かけるなら新規作成したほうが早いでしょうけれど

 ともかく、このような忘れた頃に自分の書いたタイトルでメッセージがくるという事態・・・これが不快だって気持ち・・伝わったでしょうか?(それに誤解の元)

 それから、もう1つ。さらに更に僕を不快にさせる事柄があります。Re:返信の場合 大抵、相手のメッセージのあとに自分が送った文面も同時に返信されてきますよね。あれです。 僕はどうもあれが大嫌いなんですよ。生理的に 

 これも、まあ伝わらない人には伝わらない感覚なのでしょうが、なんだか自身が一生懸命書いた文面がそっくりそのまま返ってくるのって、気持ち悪いんですよ。

 とくにこちらが、長文認めて送ったにもかかわらず、相手の返事が一言だった場合など、ほぼほぼそのメール中身は僕の先ほど送った文面で構成されているわけです。

 例えが微妙な気はしますが、よく録音した自分の声を聴くと自分じゃないみたいで気持ち悪いって経験ありませんか? あれに近いかもしれません。もしくは何だか独り芝居しているみたいな錯覚に陥るというか・・・

 このように普段から感じてしまう僕ですから、当然これまでに周囲の人間には、その行為が僕にとっては不快である旨を事あるごとに伝えてきました。

 しかし、大抵その効果は一過性で、皆さん、その場では考慮して気を使ってくれるのですが、また日が経てば忘れて同じことを繰り返すのみですので、近年では、あまりに耐えられないくらいの状況以外は逐一言わないようにしてはいますが

 最も、最近はもっぱらプライベートなやりとりはLINEやカカオトーク中心ですし、こうした心配は減ってはいるのですが・・・っと おや?

 おいおい、Eメールで自分の文章が跳ね返ってくるのが嫌なら、ずっと履歴が表示されっぱなしのLINEは気にならないのかよ?? それこそ訳わかんないよね

 そんな声が聴こえてきそうですが、そもそもLINEとEメールって全く別物なんですよ。こんなこと既知って方も多いでしょうが、それは相互通行か一方通行かの差。LINEはあの画面上にリアルタイムでお互いがアクセスしてやりとりします。いわゆるチャット形式ですよね。それに対してEメールって自分が送ったメールを一旦相手が受信して今度は相手がこちらに改めてメールを送信するわけです。リアルタイムで顔をあわせてないんです。

 これを、音声で例えるなら電話と無線の違いとでもいいましょうか。

例えば、相互オンラインである電話では、要領は通常の会話と同じですから、自分の言葉はそんな時を流れていく一コマであり、LINEの履歴もこの通話のごとくごく自然に感じるんです。(僕は)

それに対して、Eメールというのは、いわば無線ですからね。無線機ってこちらが話終わるまで相手は返信できないじゃないですか。で、さきほどのRe問題をこの無線で強引に当てはめるとどうなるか。

 先ほど話した言葉が、次の相手の返答のあとに録音されて返ってくる・・・ってことになりますよね( 一一)

 これは、流石に気持ち悪い!と感じて頂けたのでは・・・ないでしょうか。

はい、そういうことです。 論破・・できたかな・・・ さて

  閑話休題

 兎も角、そんな僕の気持ちが結局「ほんとうは理解されていない」ながら一時的には気持ちを汲んだ対応をしてくれる周囲の仲間たちですが、その中で、もう端から、僕の不快信号を跳ね除け「そんなの理解できないぜ」という態度で挑んできた男がいました。

「Re:返信なんてのは、会社じゃ当たり前。それをしない方がどうかしている。過去の履歴は大切な情報。」

  特段、趣味が合うわけでもない幼少期からの腐れ縁の彼が語った言い分です。

なるほど・・・たしかに、、、っていやいやそれは僕もね、わかってますから!

 誤解なきように僕だって、そのくらいは承知しています。確かに会社組織や、仕事関係などではむしろ必須機能ですからね。

 ただ、僕がここまで訴えてきたのは、あくまでプライベートでの気持ちの話です。

ずっと知っているはずの腐れ縁ですら、このように通じ合えなかったわけですから、やはり他人の気持ちを理解するというのは果てしないなと思うのでした。

 

 こうして、僕が不快に思うことを一例として挙げてみたわけですが、人の気持ちなんぞ簡単に為れるものではないということ ご理解いただけたでしょうか。

 僕はこのような経験から、常々それを体感してきたわけですが、きっと皆さんも

ありますよね こうした経験

 だから思うのです。冒頭に挙げたような第三者の窘めの言葉・・・そこには何もないんだってこと

 結局、ドラクエⅦには悪いですが*2人は誰かには為れないのです。

 ただ、そこでお終いではこの記事をせっかく読んでくださった皆さんも後味が悪いでしょう。大体世の中の人々はハッピーエンドを求めている?ようですからね*3

人は結局、皆違うし、違って当然。人類皆同じならクローン社会なわけでそれこそ混沌蔓延るカオスワールド

 でも、僕らはクローンじゃない。独り独りがしっかりと自分の頭で自分なりの思考を持って生きています。

 だから、自分なりに相手の気持ちを考えてあげたらいいと思うのです。そう、相手の気持ちになるのではなく、自分なりに相手の気持ちを考えるのです。それなら、できるはずなんです。せめて為れないなら気持ちだけでも近づこうという歩み寄りの姿勢です。  って、、、ことは あれれ つまり・・・

どれだけ傷ついたのか、相手の気持ちになって考えてみなさい。」

こう言い換えればいいわけですね(^^;)

  これでバッチリ間違ってないでしょう! いやぁ日本語って本当に難しいですね   

  それではお後が宜しいようで(-_-)zzz  

 

そんな僕は今日もまた、友人と食事の際にはしっかりと、「点滅信号が視界に入らないレストラン」を所望するのでした。

  

 

*1:過去記事 その感覚は何処からやってくるのだろう 参照

 

www.livingdaylights.work

 

*2:発売当時のキャッチコピーが「人は誰かになれる」だった。

*3:過去記事参照

 

www.livingdaylights.work