奇特な世界へようこそ~僕の思考回路~

僕ことURAKIが綴る目眩く思考・嗜好・そして志向の世界へようこそ。貴方にニッチな体験と出会いをお届けする そんな雑記をご賞味下さいm(_ _)m

モノ溢れる時代と心のゆとりについて

 現代は非常に便利でモノ溢れる時代です。日本は不景気だの格差社会だの言われますが、それでもやはりモノはそこらじゅうに溢れているのです。

 どうしてこうなったのでしょう。その因のひとつに、生活のためという要素があることを僕は常々、思い起こして複雑な気分になるのですが、皆さんはどうでしょうね

 本来、モノというのは、それ自体に必要性があるからこそ作られるわけです。炊飯器は美味しくご飯を炊くために、歯ブラシは歯を磨くための道具として、今日も生産され続けています。

 勿論、モノは永久に保つわけではないですから、特に消耗品などは日夜生産され続けるのは極当たり前といっていいいでしょう。

 しかし、それが時として過度に供給されてしまっているのが現代社会。

 基本的にモノを作るということはボランティアではなく仕事です。それを開発する人間がいて、実際に生産するために工場などで働く労働者がいる。それから製品としてモノを市場に流通、販売させることを生業として生活している人たちがいる。何だか当たり前のことを綴っていますが、要はこのサイクルにおいてモノを作るということが人々の生活を支えているということを考えたならば、生活の糧を得るためには、ひたすらモノを作り続けなくてはならないわけで、さらに資本主義のこの社会においては企業同士がライバル 競合しながら相手メーカーに負けないようにと新商品の開発を続けます

 これは、もう本来の必要だから生産されるという意味合いを通り越しているように思えてならないのです。こうして生活していくために生産されつづけるモノたち 

 とくに電化製品などは、もうシーズン毎に各メーカー新製品を発表し、数か月前のモノがもう型落ち扱いになってしまう時代です。

 誤解なきように、それが良いとか悪いといった話ではなく、そのような早い開発ペースというのは果たして人間にとってどう影響しているのだろうか?と考えてみるのです。

 現代の生産技術力は凄まじく、あらゆるモノが進化を遂げています。我が国でも、いつの間にやらガラケーがオワコン状態になり、ほぼ100パーセント近く?スマホ社会。ノートPCなんて知らない子供たちに親がタブレットをおもちゃ代わりに与えているような時代です。

 それが、まさにここ10年以内に起こった社会の変化です。今から10年前、2009年の時点ではようやくiPhoneが市場に本格流通し始めた頃だったかと記憶しています。それが今や・・・ これに対して、では我々人間はどのくらい進化したのだろうかと考えてみれば、皆さんもうお分かりですよね? ガラケーからスマホ市場に変遷したようなハイテク化を以てして進化というならば、人間などここ十年で何も変わっちゃいないことを思い知らされるわけですよ。勿論、人間はモノではないですから生産ラインで製造される量産品ではないですし一概に比べてはならないのは承知なのですが、敢えてそう考えた場合ということでご理解ください。

 人間がこのようなガラケーからスマホ的な劇的進化を遂げるにはきっと数万年、基それ以上の気の遠くなる年月を要するのは、過去の歴史から視てもほぼ間違いないでしょう。つまり、人間の進化というものは、皮肉にも我々自身が創造し産みつづけているモノたちよりも遙かに遅いのです。これは、よく言われることで僕がいうまでもなく、きっと皆さん聞かれたことのある事実だと思います。しかし、小耳にはさんでいたり、知識として頭の片隅にあったとしても、この事実について正面から真面目に考えてみるという経験はない方も少なくないでしょう。

 そう、例えばそれはこの人間の中の変わらない本質と、眩暈しく変化(進化)していくモノとの間に生じる不協和についてだったりします。

 ちょうど前回の記事でも少し触れたことですが、現代のあらゆるモノのサイクルの早さに人間は100パーセント対応できてはいません。PCを買ってもスマホを買っても、掃除機や洗濯機のような白物家電ですら、その機能を堪能余すことなく使い切る前には既に新商品が店頭に並んでいるのですから

 無論その性能の差は微々たるものだったりすることが多々あります。これもやはり必要だからという次元の話ではなく開発競争という資本主義の悲しき運命なのでしょう。

 またも誤解なきように言いますが、それ自体を否定するつもりはありません。むしろそうした開発競争があったからこそ、技術力も向上しアイディアも生まれ、また、その結果としてそれに携わった人々の生活を支えていることは前述したとおりですからね。

 では、なぜこのような風刺染みた毒とも捉えられかねない発言をしたのか

 それは人間とモノが本質的には馴染めないという僕の持論を伝えたかったからです。

人間の内を流れる進化のリズムはもっとゆったりだと考えたならば、やはり速過ぎるモノの変化に馴染めないのは必然の理なのではないかと思うのです。

 そうした本来馴染めない(あくまで個人的な解釈です。ご容赦)モノと関わっていく中で、人はモノを大切に使う、つまり長きに渡り愛用するということを疎かにしてきたのではないかと

 少し調子が悪くても、またすぐに新しい商品が発売され、それによって、既存の商品が型落ちとして安く手に入るという環境。このような環境下に置かれたならば、そんなモノへの愛着も薄れやすいでしょう。

 また、繰り返しますが、早いモデルチェンジはせっかくのモノの魅力 性能を堪能する余裕をも与えませんから、こうモノに向き合う姿勢自体にもゆとりがなくなってくると思うのです。次から次へと、変遷していく情報、新しい機能に慣れたり知識を吸収することに手いっぱいでは、肝心のモノの魅力なんて堪能してはいられないかもしれません。

 一時期モッタイナイという言葉がグローバルな意味で流行りました?が モッタイナイというのは こういう発想を持ち、これらの行為を根底に疑問として抱えていれば 自ずと培われるごく自然な感覚なのではないでしょうか。

 本来、人はもっとモノを大事に愛着をもって使っていくのが自然なのだと 少なくとも僕はそう思うのです。

 モノとはいいましたが何も工場の生産物だけではありません。

前回の記事内でも少し言及していますが、例えば映画という文化についても、昨今とくに我が国では、上映からメディア化の流れが速すぎると感じます。

 ときに英語では映画を観ることをSeeつまり眺めるといった表現を用います。*1 

※これは勝手な妄想解釈ですが、TVなどより古い歴史を持ち、おそらく20世紀初頭の英語圏では、労働者たちの週末の最大の楽しみだったかもしれないわけで そんな日常を忘れさせる娯楽はWatchではなくSeeがイメージ的に合っているのかなと まるで景色をぼんやり眺めるように・・

そんな風に妄想しだすと尚更、映画こそ じっくり映画館でのんびりと鑑賞するのが本来の姿なのかもしれないとさえ感じるのです。

 只でさえ忙しい現代社会、少し視点を変えてモノに愛着を見出してみたなら、きっとそこに 忘れかけていた心のゆとりが生じる・・・かもしれませんね

 たまにはそんな事を考えて生きてみるのもいいなぁ と、今回記事を書きながら、自分にも言い聞かせるのでした。 さて何を愛用してみようかなっと・・


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*1:Watch も用いるが、主に映画館ではなくDVD等メディアになった「映画」を自宅で視る場合など