奇特な世界へようこそ~僕の思考回路~

僕ことURAKIが綴る目眩く思考・嗜好・そして志向の世界へようこそ。貴方にニッチな体験と出会いをお届けする そんな雑記をご賞味下さいm(_ _)m

僕なりの笑論 其の弐 ~素直に笑えないのには理由がある~


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 はじめにお知らせですが、当ブログもお陰様で記事が増えてきたため、この度

ようやく記事をカテゴライズしてみました。

雑記ということで、やはりその内容は多岐に渡るわけで、特に読者の皆さんには,その中でより自分の読みたいモノをチョイスして頂ける機能は必要だと、今更ではありますが実装しましたので是非ご活用下さい。

また、今後、埋もれてしまった過去記事を堀り起こして見つけて頂く為のアーカイブスとしても活躍することを期待しつつ・・・

 

さて、本編  今回は「笑論」の続きとなります。

 因みに、今回はトルネコは関係御座いません。トップ画は気にしない 気にしない~♪ ※1

 

「笑い」といっても、その内容は様々です。それこそ、上記の「雑記の話」ではないですが、一口に「笑い」といってもそれは多岐に渡ります。

 「作り笑い」「愛想笑い」「高笑い」「含み笑い」それから、熟語として「微笑」、「苦笑」(苦笑い)、「冷笑」、「憫笑」、そして「ハマーン嘲笑」※2 等々

 

ときに、皆さんお気づきになったでしょうか。こう並べてみると、なんとまぁ「ネガティブな意味合い」を持った「笑い」の多いこと

 

人間の感情を単純に四分化したともいえる「喜怒哀楽」において、「笑」というのは「喜」「楽」に充る感情でありながらも、片やネガティブな側面を秘めていて、それは「哀しみ」でもなく「怒り」でもない

 

 そう、このような四字熟語では言い表せない感情を持つ そんな「笑いの負の部分」について、僕なりに考えたことがあります。

 

 例えば、ネガティブな笑いとして、思い浮かぶシチュエーションとして、「人を馬鹿にして笑う」というのがあります。先述の熟語で当てはめるなら「嘲笑」でしょうか

 

 2000年代に入り、メディアがこぞって「オタク文化」を一般に流布したことで今やそれは市民権を得たといっても過言ではない 「現在」はそんな時代です。

 しかし、そこには「嘲笑」について考えさせられる内容が秘められていると思うのです。

 「オタク文化」に限らず、何にせよ「興味のない人に何かを伝えたり、注目させる」ためには、それを「笑い」として提供するのが確実なのでしょう。

 マスメディアがそれを示してくれていますから

 それまで、一部の層にしか認識されていかったであろう「萌え」という言葉、感情を「一般社会」に流布するためには、「萌え」=ロリータ趣味や性的な趣向ばかりと結びつけて紹介、説明していくわけです。そうすると、「一般人」はこう思うはずです。

「自分には理解できない世界だな」とそこでまず「隔たり」が生まれます。

 因みに、本「萌え」というのはそうした性的な意味だけではく、「自分の好きなこと、夢中になれるもの」であれば、それがメカであれ車であれ、絵画であれ 対象はなんでもいいのです。何も「美少女」だけに萌えなくてはならないわけではないのです。

 そもそも、そうした使い方自体がスラングであり、本来は「草木が芽吹く」といった

植物の成長を表現した語なのですから、やはり「心が芽吹く イキイキする」といった

ニュアンスがしっくりくると思うのです。

 

しかし、「それ」をメディアが面白可笑しく扱うことで、こうした趣向の人々つまりオタクを弄るという習慣が形成されていくわけです。

 人は、「自らの理解できないものは排除したい」生き物だと思っています。但し同時に人間は「理性」の生き物でもあります。ですから、真向から排除しようとはしません。嘲り笑うこと、時には皮肉ることで、あたかもそれを楽しむように装うのです。

それこそが「負の笑い」だと思うのです。 

 こうして、ある種「一般人の嘲笑」の元に社会に流布され日の目を見ることになったオタク文化は、結局、こうして市民権を得ていったわけですから、すべての「一般人」がそうした「笑い」でこれらの文化を迎えたわけではなく、どういった形であれ、メディアに流布されたことで、新たに人の心を掴んでいったのも事実でしょう。

その意味で逆に偏見が消えることにもなったので結果としては良かったといえます

但し、 未だに理解できない人は理解できないのです。それは仕方ないこと

人の価値観はそう簡単には変わることなどないのですから これについてはまた別の機会に言及したいとは思いますが・・・

 

今回言いたいこと

好きなことは嘲笑えない」ということ。その逆もまた然り

 

 萌えという感情を嘲るのは、そうした経験なく、「自身の人生に一切リンク」していないから 

だから無責任に嘲笑えるのでしょう。

 逆にそうした感情を当たり前に体感して生きてきた人間にはとても「嘲笑えない」のは、自身の「生き方に密着しているから」大切な感情だから 

そう思うのです。

 

 ここまで読まれて、よく分からないという方はこの逆を考えたらよく解るかもしれません。

 例えばスポーツ観戦するという習慣がない社会で、スポーツ観戦に勤しむ奇特な人を紹介したり、それ(スポーツ観戦するという文化)を社会に広めようとしたら、やはり面白可笑しく紹介するんじゃないかなと思うのです。

 だって理解できないことに興味をもってもらうには「笑い」という名の毒が有効なのですから

 

 

※1 これ見て??と思った方 オンラインのドラクエXでのプレイ中撮影です。

魔法の迷宮での隠し階にてトルネコと遭遇ショット 初実装時(バージョン1・3

世告げ姫と魔法の迷宮)の際は遭遇率はもうミクロで1000回潜っても会えないって

ユーザー見かけたもの。。いまじゃ導き香水で楽々 有難味は皆無。。

最近インしてないんだが、迷宮自体オワコンでしょうね・・・

 

※2 機動戦士Zガンダム第43話 サブタイトル「ハマーンの嘲笑」

シャア=クワトロが彼女に跪くというシチュエーションが印象的だった。